人生の引き際はどうしたらいい?

  耄齢を重ね重ねて鰻飯
 2月1日で83歳になった。何年か前、「敬老もされず棄老もされぬなり」と言う句を作ったが、最早、自分自身を持て余す年齢になった。
 古来、中国では、年齢に応じて10歳きざみに呼び方が変る。10歳=幼学。15歳=志学。20歳=弱冠までは判る。30歳=壮。(働き盛りか)40歳=不惑。(そろそろ人生の先が見えてきた)。50歳=知命。60歳=耳順。70歳=従心。そして80、90歳=耄である。100歳=期頤(きい)。40にして惑わず。50にして天命を知る。人生この辺が年貢の納め時の意か。この辺が当時の平均寿命だったのだろう。60耳順うは、孔子が天地万物の理に達して何事も理解できたとする歳だそうだ。70は心の向く侭振舞っても道を外れることはないようになる。人生の達人と言う意味か。それが80,90になると、突如、老いぼれて役立たずの存在になる。その上、100歳になると、体が利かないので人をアゴで使うようになると、トドメを刺す。当時は80〜100まで生きる人は滅多にいないだろうにこの云われようだ。
 あたりを見回しても、80歳を超えて、年下を凌ぐ活力、見識を備えた人物はそうは居ない。にも拘らず、それまでの名声、評価に寄り掛かって振舞う老人はすぐ思い浮かぶ。政界、財界などに特に多い。創造に係わる世界にも、マンネリに終始する有名人が結構多い。スポーツ界は実力の衰えが如実に現れるので、現役を退く決心がつけやすいのか、潔い引き際が目立つ。
 さて、平々凡々たる乃公はどうしたらいいのだろう。80歳過ぎた頃からガクンと馬力が落ちてきて、なんにつけ、意欲が沸かず、億劫だけが首を擡げる。アクセルを踏み込んでもスピードの上らないボロ車みたいだ。引退宣言てったって、「なにから?」と言われれば、返答に困る。さしあたって、毎年、滑稽句を晒して年賀状で披露していたのを、自分自身、趣向に飽き足りなさを悟って、今年から止めにしたところ、何人かの方から、「なぜやめた?」と云う反応を蒙った。
 「冬蜂の死に所なく歩きけり」(村上鬼城)。目下は健康にもさしたる故障なく、「そんな贅沢言うなっ。」と叱声が聴こえるような気もするがーー。