「らくだの馬」と「屑や久六」の事

落語「らくだ」は六世笑福亭松鶴が演じ、関東でも何人かの噺家が口座にかける大ネタになったが、それを歌舞伎作者、岡 鬼太郎が劇化した。戦後、昭和25年、エノケンが松竹で映画化して、一躍有名になった。最近では、中村勘三郎が歌舞伎映画に撮っている。
 さて、昭和26年、エノケンの映画を観た当時の東北大学演劇部員が、これを上演しようということになった。当時の学生演劇は、西洋近代劇、日本新劇界などの上演劇を取上げるのが常道で、落語種の髷物喜劇を手がけるのは、かなり破天荒なことだった。演じる者、大道具、小道具に至るまで、未経験の連続だった。
 あらすじは、嫌われ者の通称「らくだの馬」が河豚にあたって急死する、そこへ通りかかった「屑やの久六」がらくだの兄貴分の「手斧目の半次」に掴まり、長屋の連中や大家に酒や肴の無心の使いに駆り出されるが、けんもほろろに追い返される。そこで、「久六」は死んだ「らくだ」を背負わされ大家に繰り込み、「かんかんのう」という踊りを踊らせる。流石の因業大家も閉口して、酒と肴をまんまとせしめられる。ここからの展開が面白い。おとなしげな久六は、酒が入るにつれ、居丈高になり、半次を閉口させる。この逆転劇に観客は大歓声となった。生真面目な観念劇が多かった学生演劇が、通俗な現代劇も取上げるきっかけになったのである。この時の久六の演技は、誰しも一世一代の名演技と認めることになった。

 それから60年、「屑やの久六」は「らくだ」を残して85歳で旅立った。現実の「らくだ」と「久六」は途切れ途切れに往来が続き、平成8年から15年までは、「らくだ」の主催する句会に参加し、なかなか味のある句を残している。二,三ご披露する。
    黄落や余命知らずの習ひ事   
    鎌鍛冶の槌に緩急日脚伸ぶ
    着ぶくれの子や鼻を拭き手を温め

 「久六」さんは、こつこつと人の世話をするタチで、住まいの町内の会長を長年勤め、生涯現役で旅立ったそうである。
 久六を演じたのはD氏、らくだはかく云う小生である。          
    久六はらくだ残して先に逝き