「タイマグラばあちゃん」の素朴で豊かな生き方

 岩手県早池峰山麓、北上高地の開拓地に数十年の生活を全うした向田マサヨばあちゃんのドキュメントが1月27日NHKBS3で放映された。戦後、ともに入植の10軒ほどの仲間は皆移住したが、久米蔵、マサヨ夫婦は30年以上の年月自給自足の生活。水は近くの小川から、米は採れないないので採れたジャガイモの皮をむき、水に晒し寒晒しを繰り返して粉に挽き主食とし、薪を炊いての生活、電気が灯ったのは昭和63年、それまではランプの生活だった。新婚の時防風林にと植えた苗木は30年経って大木となり、貴重な燃料となる。毎年収穫した大豆で作る味噌玉は、家に育った天然の麹カビに晒されて自家製の味噌となり、又採れたての大豆で作る豆腐は久米蔵さんの大好物でもあった。岩手県のほぼ真ん中にある早池峰山(はやちねさん)の麓「タイマグラ」と呼ばれる小さな開拓地の、NHK出身の澄川嘉彦氏が手がけた15年の記録であり、国際映画祭で複数の受賞をしている。

 戦後10軒あまり入植した農家は、東京オリンピックの頃にはほとんどが山を去り、向田(むかいだ)久米蔵・マサヨさんの二人だけとなった。水は近くの小川から、米は採れないないのでジャガイモの皮をむき、水に晒し寒晒を繰り返して粉にし主食とし、薪を炊いての生活が続く。それから20年あまり後の昭和63年、畑仕事にいそしむ向田さん夫婦の静かな暮らしに二つの出来事が起こる。ひとつは夏に久しぶりのお隣さんができたこと。大阪出身の若者(奥畑充幸さん)が開拓農家の残した空き家を借りて住み始めたのである。もうひとつは、年の瀬になってタイマグラに電気がひかれたこと。昭和の最後に灯った明かりであった。
自分が畑で育てた大豆を使っての豆腐は久米蔵さんの大好物だった。「お農神さま」への信仰、春一番の味噌作り、土に生きる素朴な暮らしぶりにかわりはないが、マサヨばあちゃんの歳月にはさまざまな出来事が起きてゆく。長年つれそった久米蔵さんの死、大雨にたたられた不作、奥畑さんの結婚、そしてばあちゃんが産婆をすることになった長男の誕生… 。
 2000年の春、ばあちゃんは心臓の発作で山をおり、間もなく81歳で亡くなった。しかし、ばあちゃんの生きた証は消えない。タイマグラに住み続ける奥畑さんは家族とともにばあちゃんが教えてくれた味噌作りを受け継いでいこうとしている。
 畑の作物を食べに来る狐や鳥に「先に住み着いてるところへ割り込んだのはこっちだから」と微笑んで思い遣るばあちゃんに人間の思い上がりは微塵もない。どんなに科学が進歩してもかわらないもの。どんなに暮らしが便利になっても人間にとって他にかわることのできないもの・・・。身体を動かして働く喜び、自然に抱かれる喜び、季節を感じる喜び。 ばあちゃんが守ってきたのは「人としてかわってはいけないもの」であったように思われる。どんなに暮らしが便利になっても人間にとって他にかわることのできないもの・・・。身体を動かして働く喜び、自然に抱かれる喜び、季節を感じる喜び。ばあちゃんが守ってきたのは「人としてかわってはいけないもの」であったように思われる。
 ばあちゃんの四季のいとなみは暮らしが便利になっても人間にとって他にかわることのできないもの・・・。身体を動かして働く喜び、自然に抱かれる喜び、季節を感じる喜び、「人としてかわってはいけないもの」を教えているように思われる。
 すべてが豊かになって、欲望が膨らみ過ぎてはやがて破滅する。古い経済の教えに「入るを量りて出ずるを制す」と言う。原発の問題はこの格言にのっとって、再考してはどうかと思う。
 因みに「タイマグラ」とはアイヌ語で「夢に続く道」という意味だそうだ。