ガラパゴス現象の中で「考える葦」

先日、「ガラ携とはなんぞや?」と質問したら、それはガラパゴス携帯電話のことと教えられた。アイ・ホーン流行の当節、電話本来の機能に固執する、保守的利用に対する揶揄とも受け取れる。改めて周囲を見回すと、色々なガラパゴス現象に気がついた。
 ガラパゴス現象とは、日本で生まれたビジネス用語で、孤立した環境で、製品や技術が改良や発達をして汎用に適応できない状況になると、エリア外から汎用性があり価格の競争力がある製品や技術が現れて淘汰される危険に晒されることを言うらしい。電話のみの機能を追求する間にパソコンの機能と合体した機種が生まれて、アツという間に、普及してしまった。回りはアイホーンばかりの中で、従来の携帯電話を使っているのは、ガラパゴスに生存している旧世代種族なのである。しかし、日進月歩の世の中に、流行に息を切らしてついていくのだけがいいのだろうか?
 新聞社は「デジタル新聞の便宜」を盛んに宣伝しているが、印刷された新聞には、「デジ新」にはない機能がある。私は、新聞を手にしたら、先ず「見出し」を俯瞰する。「大きい見出し」から1段組みの「ベタ記事」まで丹念に見てゆくと、書かれている記事内容の評価やその齎す影響などが判ってくる。出来事はテレビで既に承知していても、新聞の取り上げ方や論調を見て、自分の思考で独自の判断を下すことができる。流れるままにあたえられるテレビ報道と違い、新聞の記事は、事実を伝える共に、事実を解きほぐし、読者の判断に材料を提供する。時には、新聞の論調と違った独自の判断を下す事もある。新聞は、事実の伝達と新聞社の意見を記し、読者に思考を問いかける。これは正しく「新聞のガラパゴス現象」だ。
 世に氾濫する「利便性」ばかりに追随していると、主客転倒して、人間が利便を利用するのでなく、利便性に人間が振り回される状況になる。