小さいお家

 1964年生まれの中島京子が書いた直木賞受賞の小説「小さいお家」を読んだ。
物語は、昭和5年小学校卒業の14歳の少女が山形の片田舎から上京して、女中奉公に住み込んだ先で過ごした10年余の回想から語られる世相の移り変わりだ。大正12年関東大震災から復興した当時の東京は人口500万、市街地は西部、南部の私鉄沿線に新しい開発が行われて中流家庭が移り住んだ。そんな最中に話は始まる。当時は月給が百円になったら結婚しようという時代、女中の受け入れ先は、中流の上クラス、恐らく15円の給金を与えて住込みの女中を雇えるのは、それ相当の収入があったと思う。雇い主平井時子は22歳、夫の雅樹は10歳以上年上、それに時子の先夫との連れ子恭一の3人家族。物語りの主人公たきは14歳。当時の女中奉公は結婚準備の経験として、又地方出身の若い女性には願ってもない都会生活の経験になった。たきと時子は姉妹のような親密さで10年をすごす。世の中は、徐々に戦時に向かって動いていたが、庶民の生活はまだ平和で物も豊かだった。平井が役員をしていたおもちゃ製造会社も順調に拡大してゆくが、金属材料の不足に伴い次第に時勢の影響をうけてゆく。しかし、家庭生活はさほどの不自由もなく楽し気に過ぎてゆく。
私が生まれたのは昭和5年、平井家の恭一と同世代だ。たきの語る昭和10年代には数々の懐かしい記述がでてくる。そのいくつか。
 恭一にあてがわれた「小学1年生」という雑誌。講談社からは「少年倶楽部」がでていて、わたしはその方がほしかった。
 昭和12年南京陥落の提灯行列に連れていかれた。戦後問題になった大虐殺など知る由もなかった。
 ス・フという人造生地。ステイブルファイバーというのが正式名称だが、持ちが悪くて評判が悪かった。後年空襲が激しくなって、アメリカのB29爆撃機から降ってきた落下傘がペラペラだったので、アメリカも物資不足で、ス・フを使っていると喜んだら、これはナイロンのはしりだったというお笑いもあった。
 興和奉公日。中国との戦争が長引き、銃後を引き締めようと、毎月1日を興和奉公日と定め、弁当も日の丸弁当、街では酒類の販売もご法度になった。
 1939年1月15日、双葉山の69連勝、当時、大相撲は、玉錦、男女の川、武蔵山、に加えて、双葉山が加わり、4横綱時代、その双葉山が69連勝して、この記録は今も破られない。私は玉錦贔屓で、双葉山が安芸の海に負けて連勝がストップしたのを憶えている。
 紀元二千六百年の祝典、昭和15年11月3日(当時は紀元節という祝日)宮城前で祝典が行われ、それに出席した校長先生が全校生を集めて式典の報告を聞かされた。「紀元は二千六百年/ああ一億の胸は鳴る」という奉祝歌も歌わされた。