小さいお家 続

○小学校が国民学校となる。私は昭和11年長崎第一小学校(豊島区椎名町)に入学し、1年生の2学期に、大森第一尋常高等小学校に転校した。ところが昭和16年4月、国民学校と名前が変わって、昭和17年3月国民学校初めての卒業生となった。学制は戦後に元に戻るから国民学校卒業は少ない。
昭和17年4月私は私立城北中学校に入学するが、平井家の恭一は19年4月新設の府立25中学校に入学する。昭和16年12月に戦争は始っていたが、新聞は日本の連戦連勝を報道し世間に緊張感はなかったが、17年4月18日昼、空母ホーネットからのアメリカ機B-25が突如東京を襲った。その日、私は市ヶ谷の学校から帰宅の途中、浜松町駅で空襲警報が鳴るや否や、頭の上を低空で飛んでゆく双発機とそれを追いかけるように高射砲の射撃をみた。覚えたてのゲートルを巻き、ホームから線路に飛び降りたが、その時はもう米機は飛び去ったあとだった。瞬間、新聞の連戦連勝はほんとだろうかという思いが胸をよぎったものである。
○このあと、庶民の生活にも、ひたひたと戦時色が濃厚となって、家庭で女中を使うことも憚れるような風潮になり、たきは19年3月平井家にいとまを告げる。原作は、この間、時子と夫の勤め先の社員の恋のやりとりがあり、たきは時子の想いに悩むが、これは省略。
 その後、たきと平井家の連絡は途絶え、昭和20年春、平井家の赤い屋根の小さいお家は空襲で焼け、平井夫妻は庭の防空壕で焼死する。
 この原作を読んで、山田洋次監督は映画化を思い立ち、原作者に熱心に働きかけた由。彼は私と同年、そに意図を推測すれば、昭和10年代の時子とたきの厚情を描きながら、庶民の平和な家庭が国策に侵され、破滅に追い込まれる有様を描きたかったのではないかと思われる。現代はマスコミ報道も盛んで、厳重に統制された戦前とは違うとは言え、政治も経済も徐々に戦前に近ずきつつある現状に、一見平和に酔いしれる庶民の生活と戦前を重ね合わせる事を提言していると観るのは考え過ぎだろうか。