終戦の日の体験

 総務省の人口推計では終戦時14歳だった85歳以上の生存者は511万人、人口の4%。小生もその1人。当時、学徒動員で中山道戸田橋にあった、大豆からカゼインを製造する工場にいた。ジェラルミンの代わりにベニヤ板を飛行機に貼る材料にすると聞かされていた。頻繁な敵艦載機の来襲に逃げ惑う日常だった。8月15日正午の天皇の肉声の終戦詔勅は此処できいた。初めて聴く天皇の肉声は浮世離れした抑揚だったが、敗戦の現実は疑う余地なく理解した。広島、長崎の原爆は「新型爆弾」と新聞に載った直後に、被害の惨状はすぐ東京にも伝わってきた。玉音放送の直後、級友の山下敬君が、「天皇陛下にお別れに行こう」と言う。「よし、行こう」と応じて歩き出した。戸田橋から宮城前まではかなりの距離だが、行き着くまでの記憶はない。恐らく都電を乗り継いで行ったのだろう。二重橋前の広場に着いたのは午後3時頃だったか。玉砂利の上には正坐して頭を下げている人々の光景はよく見る写真のままだ。遠くから、大声で何か叫んでいるのが聞こえてくる。暫くして、家に帰ることにして、山下君と別れ、空襲で焼け出されたあと仮住まいの東北沢の自宅に帰り着いたのは夕方になっていた。夕焼けから暮れようとしている家々からは明るい電灯が洩れているのに気付いて、戦争は終わったんだとホッとした。ついさっきまで、本土決戦でいずれは死ぬんだと思っていた息苦しさから解放されて、軍国少年のメッキは瞬時に剥がれたのだ。
 私は戦時下の教育の影響の恐ろしさを身をもって体験した。同世代でも、地方にいた連中と違って、東京で、焼夷弾爆撃の地獄絵を見、爆弾、機銃掃射に追いかけられたり、大げさに言えば、生死の境をくぐり抜けた15歳の経験は、戦争不可の信念を揺るぎないものにした。